Monthly Archives:5月 2017

第11回 いよいよラジオへ

5月 27, 17
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平成6年のお正月もすぎて、11日は私の誕生日。別に誕生日だからといって誰かが祝ってくれるというわけでもなく、午前中に親友で舞台をやっている女優の桂子ちゃんから「お誕生日、おめでとう」という電話があったきり。10年来の親友で、こまめな彼女は、誕生日とか特別な日には必ず一番に電話をくれます。ああ、でもこれが男の人だったらもっと感激なんだけれどなあと、いつも思ってしまう私。おおざっぱな性格の私は、桂子ちゃんの誕生日が3日もすぎてから、「おめでとうございました」なんて、まがぬけた電話をしてしまいます。

テレビのお昼の生番組『とことん好奇心』で1年間ご一緒していた三笑亭夢之助さんがいつかこんなことをおっしゃっていました。

「ぼくは咄家だから、話をするときに注意していることがある。それは最初に『ま』がつく言葉なんだよ。『ま』がつく言葉をはずつとおかしなことになるよ。それこそまがはずれるっていうやつだよ。ほかにも、まが悪い、まが持たない、まがぬけるなんていうのもあるしね。ま(間)は人と話をするのにも、つき合うのにも大切なことなんだよ」

それ以来、私は夢之助さんのこの言葉を忘れないで、「ま」をはずさないように注意しています。今年の桂子ちゃんの誕生日には朝一番に電話しよう。女の人にとって、こういうささいなことって、とても大切なんですよ。

また話がそれてしまいました。その誕生日の午後、愛川さんから電話がありました。

「文化放送にきみの話をしておいたから、連絡がきたら写真とプロフィールを持って訪ねて行くようにね。あっ、それからきみの留守番電話の声、早口でとても暗い。ラジオは早口でも、暗くてもだめだよ。吹き込みなおしておくように……。それから電話に出るときは『は~い森で~す』と明るく出るようにしなさいね」と早速注意を受けました。

しかしそれから待つこと2カ月、何も連絡がないのです。いったいどうなってしまったのでしょう。あの誕生日の話はなくなったのか、競馬の仕事はやはり夢だったのか、と不安な日々を過ごしました。

そんなある日、電話が鳴りました。

「こちらは文化放送ですが、明日にでもお越し願えませんか」

「はい、明日ですね、何時におうかがいしたらいいんでしょう」と二つ返事で、飛んでいきました。ラジオの世界にはちっとも縁がなかったので、前にNHKやTBSのスタジオを見学に行ったり、ナレーションの仕事で何度か録音に訪れたことはあるけれど、実際に自分が出演するとなると気持ちがグイグイひきしまり、「がんばらなくちゃ」と気合いを入れました。

文化放送は、JR四谷駅から新宿通りを歩いて10分ぐらい、ドーナツ屋さんの角を左に曲がった先の所。昔は教会として使われていたところだそうで、外から見るとここがラジオ局なのか、と思うくらい、なんとなく歴史的な感じのする、少しこじんまりした建物なのです。ここから電波を送り出して、たくさんの家庭に声を届けているのかと思うと、すごいなあ~と思いました。そして、私の声がここから流れることを想像すると、ちょっぴり面映ゆくもありました。

今までテレビや舞台のプロデューサーには会ったことがありますが、ラジオのプロデューサーというのはどんな人たちなのだろうかと興味を持ちました。その時お会いしたのは4人。皆さんインテリ風なのでテレビの世界とはだいぶ違うなと感じました(テレビのプロデューサーさんごめんなさい)。

その面接でのやりとり。

「テレビや舞台をこれだけ長くやっていて、ラジオは初めてなんですね。失礼ですが、もうそんなに若いという年齢ではないでしょ。今さら一から勉強するなんて大変だからやめた方がいいと思うんですが……」とプロデューサー(ほっといて、歳のこと言わないで)。

「いいえ、私勉強好きですから」(と、神妙なカオをしています)。

「そうですか。それではあるエピソードをお話ししますね。某番組のベテランアナウンサーは、毎日午後決まった時間に公園にレポートをするという番組があってね。涼しいときはそれなりに人がいるからいいけれど、ある真夏の本当に暑い日、人っ子ひとりいなくて、困ってしまった。そのときどうしたと思う? ラジオは黙って立っているわけにいかないんだ。そのアナウンサーは木に登って、蝉の鳴き声をとったんだよ。ラジオはそれぐらい大変なんですよ。まあ覚悟してがんばってください」(やっぱりインテリだ、この人。妙に説得力あるものね)。

そんなわけでようやく話がまとまったのは、文化放送の日曜日放送の『サンデースーパーキンキン』が始まる1カ月前のことでした。そしてこの時プロデューサーに言われたのは、「スーパーキンキン」のスタッフは誰ひとり競馬を知る者はない、私自身も興味がないのでアドバイスはできない、1人でがんばってほしいということでした。興味がなければ興味を持ってもらえるようにがんばって、いい放送をするしかないと私は思いました。このプロデューサーの最後の言葉で、競馬のレースのことだけでなくて、人間と馬との比較や馬の生活などについてわかりやすく、自分なりにレポートして、それを話すように心がけていきたいと心に誓う朝ちゃんでした。
●誰にだって失敗はある
番組で愛川さんの相手役、つまりアシスタントのオーディションがあるというので、私は競馬コーナーの担当が既に決まっていましたが、ノコノコとそのスタジオを見学させてもらいました。

愛川さんは15人ほどのフリーのアナウンサーやタレントを相手に放送と同じように楽しい会話をしています。あの中から相手役が決まるのだと思うと私もうかうかしてはいられないと、オーディションが終わってから愛川さんにお願いしてスタジオでしゃべらせてもらいました。

「どうだい、少しはしゃべり方や何かの勉強をしたかい?」

「ええ、まあ」と不安な声で答える私。

「それじゃ、ぼくがスタジオにいて、きみが競馬場にいると設定して少し練習してみよう」

しかし、私は上がりに上がってしまって、しどろもどろ。しまいに黙ってしまうという情けないありさまです。

「それじゃ、ダメだ。きみはいままでなにをやっていたんだ。きみにはとうてい無理だ。明日までによく考えて、できないんだったら番組は降りるように。そのときは、ぼくも一緒に謝ってあげるから降りなさい」(芸には厳しいキンヤさんです。トホホ……)。

このとき、うまくできなかったくやしさと恥ずかしさ!

誰にだって最初はあるんだ。ダメだと言われて、はいそうですかとあきらめてしまったら、一生私はだめになってしまう、がんばれるだけがんばろうとこのとき自分に言い聞かせました。後日、放送が始まってしばらくしてから愛川さんに言われました。

「きみはできないくせに、なんでもできるという顔をしてやらせてくれという。ぼくはそのずうずうしさに負けたよ」(根性あるって言ってください、キンヤさん)。

私の最も信頼する知人の1人で、某テレビ局のプロデューサーにも言われました。

「愛川さんはきみの本当の意味での師匠だね。あんなにビッグな人が、そんなことを本気で指導してくれるなんてすごいもんだ」

私はそれ以来、愛川さんを勝手に師匠と仰ぎ、自分は不肖の弟子と思っています。そしてそのとき教えてもらったことがもうひとつあります。「放送するとき、誰に向かって話すのか」ということです。

「きみの場合はぼくにだよ。ぼくの場合はラジオを前にいる1人の人だよ」と愛川さんはおっしゃいました。恥ずかしいけれどそんなこともわからない未熟な私でした。

そういえば夢之助さんからはこんな話も聞きました。

「たとえば会場に100人のお客さんが入っているとすると、ぼくはぼくの話を真剣に聞いてくれていると思う人、1人に向かって話し出すんだ。だってそうでしょ。全部の人がぼくのお客さんとはかぎらないんだから、1人に向かって話していて、そのうちに1/3の人がぼくの話しに耳を傾けて、笑ってくれたり、頷いてくれれば大成功なんだよ。だからきみのように専門が競馬となると、ラジオの向こうで何人聞いてくれるのかというととても難しいものだ。だってこのぼくはきみのいうナリタブライアンとかなんとかアマゾンと、ビワなんとかって言ったって、まるきり興味がないから、なんだそれって思うだけだよ。だから競馬に興味を持たせるように話をするのは本当にたいへんなことだよ。1人の競馬好きの人に聞いてもらうだけだってすごいことだからねえ」

分野は違っても、先輩は先輩、ありがたいものです。私はその話を聞いてから、よりわかりやすい話をしようといつも思ってきました。

第10回 ラジオの競馬キャスターになるまで

5月 27, 17
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話はもどりますが、4月のドラマのロケのときに預かった1万円で、この年、平成5年は、ビワハヤヒデを中心に馬券を買っていました(私はビワハヤヒデと岡部騎手のコンビを強くてとても好きだったので)。ただし出走するといつも一番人気になるので、高配当は望めません。しかしそこは朝ちゃんの『チリ山馬券必勝法』、コツコツ元金を増やしていき、11月ごろには7万円になったので、愛川さんに電話をしました。

「どうせすぎになくなってしまって、あんなことを言った手前、かっこうが悪くて電話できないのだろうから、こっちからかけようと思っていたところだよ」

「じつは7万円になったので、お返ししたいのですが」

「いいよ、まだ当分きみに預けておくから、そのまま持っていて、また馬券を買っておいてよ。なくなったって気にしないからね。本当によく当たるんだねえ」

「はい、そうなんです。私、ラジオで競馬の実況中継をしている井口保子さんのような、ああいう仕事を前にしたいと思っていたんですが、なかなか縁がなくて……」

「そうか、競馬ねえ……」

とそのときはそれきりになってしまいました。

それから、その年、平成5年、12月26日の第38回有馬記念レースで、私はトウカイテイオー、ビワハヤヒデの枠連3-8、940円を当てて、愛川さんから預かった1万円はとうとう8万円になったのです。

それを愛川さんに連絡すると、思いもかけない言葉が返ってきました。

「そんなに競馬の仕事がやりたいのなら、どうだろう、ひとつ来年の4月からぼくが始める文化放送のラジオの番組で競馬の予想をやらないかい」

二つ返事で、「やらせていただきます」と答えたけれど、私はラジオの仕事や競馬の予想など実はひとつもしたことはなかったのです。しかも、

「1カ月間、毎週3レースやり、4周の月で12レース、5周の月で15レース、ひとレースも当たらなかったら、次の月からきみはいないよ」

と恐いお言葉付き。私はやっとみつけたレギュラーの仕事、実況ではないけれど競馬の予想をやらせてもらえるのだと少々有頂天。しかし2年間というもの、毎週毎週、今週はずしたら来週はないぞというプレッシャーとの戦いであったことも事実です。しかしこの言葉があったからこそ、私はがんばれたし、当たったときの喜びもまた人一倍大きかったのだと思います。

そして毎週放送を聞いてくださったリスナーからは「困ったとこの朝ちゃん頼み」とまで言われ、こんなに嬉しかったことはありません。これが私の元気のもとなんです。

そんなわけで、愛川さんの1万円を8万円にまで増やしたのですが、私は番組が終わった今でも枠連買い。今は馬連の時代なのに古いと言われるかもしれませんが、朝ちゃんの『チリ山馬券必勝法』『銀行馬券』の買い方を頑として守っています(けっこう頑固なんだな、私)。

さあさあ寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、これが朝ちゃんの『チリ山馬券必勝法』。

配当金こそ少ないが、損もしないし、させません。気がつけば少しずつでもプラスになる。まずその買い方は枠連だ。万馬券ネライのオニイさんも、こっそり枠連押さえてる。欲はかかずに、汗をかけ、大儲けなんか狙わずに、こつこつこつと元返し!

なんか寅さんのようになってきましたが、私の買い方は一定の元金以上に馬券は買いません。配当が元金以上になったときは元金をとって、あとは貯金をする、男の人には笑われるかもしれないけれど、女の人にはそういう買い方のほうが合っているし、そうやってこつこつと貯めていくことが、やがては競馬に勝つことになるのです。また競馬を長く楽しむ方法なんです。

第9回 はじめてお会いした愛川欽也さんの印象

5月 27, 17
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今まで舞台やテレビドラマで多くの方たちと共演してきましたが、舞台やテレビでの印象と実際にお会いしたときの印象は人それぞれ違います。恐そうな悪役の綿引勝彦さん(最近はテレビでお父さん役もやっていますが)、実際はとってもやさしいんですよ。

愛川欽也さんの場合は、フジテレビの『なるほど!ザ・ワールド』や『出たもの勝負』、テレビ東京の『出没アド街ック天国』で司会をされているときのあの姿そのまま!

いまや日本中知らない人はいないくらいの、おしもおされぬ大タレントの一人というのに、「キンキ~ン!」って呼んだら、「ハイ、ハ~イ」とあの笑顔で答えてくれるという感じ。実際もそうなんです。だから愛川さんのいるテレビドラマの撮影現場はいつもにぎやかで、明るく、私もほかの作品に出演したときとはまるで違う雰囲気を味わいました。だからといって、緊張感がその現場にないというのではありません。ドラマの主人公の刑事役の「カメさん」や考古学者などをやっているときのほうが、なんとなく、ああ愛川さんが芝居しているという新鮮な感じがしたものです。でも、それはあたりまえですね。愛川さんは俳優座出身の役者さんなんですから。

生来のおしゃべり好きな愛川さん、ラジオやテレビの生トーク番組でもよくしゃべりますが、楽屋でもじっと黙っているということはなく、ひっきりなしにおしゃべりをして、みんなを楽しませてくれます。

ドラマですと、俳優は自分の出番の前には、自分の世界に入って、ひとりで台詞をぶつぶつ言っていたり、緊張しながらシチュエーションを考えたりして本番に臨む人が多く、本番前にまわりを笑わせたりするほどの人はあまりいないので、これには驚きました。そしていざ本番になると一瞬にして演技ができてしまう、そのすばらしさに感動。

もともと上がり症の私は、お陰で愛川さんと一緒に仕事をするときは、緊張する暇がないくらい笑ってしまって、本番では上がらずにすんだことがたくさんあります。本番前に考えなければならないこともあるのに考えないで出て、とちったこともありますが。

第8回 愛川欽也さんとの出会い

5月 27, 17
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仕事が少しずつでも増えれば、新たな人との出会いも増えていきます。私は父の影響かお酒が大好きで、毎日芝居がはねると必ず誰かと飲みに行ってましたが、お酒を飲むと、元々早口なのに、ますます早口になり、よく笑うし、大声になってしまうし、しかもいくら飲んでもめったに酔わないのです。これがあまり女らしくないところなのか、いまだに一人身。誰ですか、飲む、打つじゃもらい手なんかいない、なんて言っている人。

舞台の仲間も飲助が多く、芝居のあとは反省会と称して、一杯飲むのが日課になってしまっているんです、このギョーカイ。なかには一滴も飲めないという人もいます。ある日そんなFさんに連れて行かれたところで、あるテレビ局のプロデューサーに会いました。私が今あるのは、引き合わせてくれたお酒を一滴も飲めないFさんと、競馬を全然やらないこのプロデューサーのお陰かもしれません。人と人の出会い、運というのはどこでどうなるかわからないですね。このお酒の席で、私は思い切ってプロデューサーに仕事をお願いしたのでした。どうしてもテレビ朝日の土曜ワイド劇場「西村京太郎シリーズ」、すなわち愛川欽也さん主演のドラマに出演したいと……。朝ちゃんの本領発揮で~す。

そしてそれから待つこと3カ月。ようやく愛川さんとご一緒できたのです。4年前の平成5年の4月のことです。でもこのときは、競馬の仕事をやってみたいという考えは薄れていました。もしくは諦めかけていたのかもしれません。

さて初めて出演した愛川さんのトラベルミステリーシリーズのロケのときの出来事です。地方のロケのときは、出演者やスタッフでお酒を飲み、カラオケを歌い、大騒ぎになる日があるんです。だって地方へ皆で行って、それも朝早くから夜遅くまでロケにかかりきりとなるとどこかで気を抜きたいときがあるんです。とかなんとか言って結局毎日飲んでいますけどね。そんなカラオケの席でのこと、競馬好きのスタッフと、いつの間にか競馬談義になりました。

「今度の日本ダービーでは、ウイニングチケットが勝って、柴田政人(現調教師)は初めてダービージョッキーになれるかな。いややっぱり、勝つのはビワハヤヒデだと思うけど、どうだい?」

いろんな意見が続出し、じゃあ、みんなでやろうということになりました。そこへカラオケのマイクを握ったら離さないはずの愛川さんがニコニコ顔で現れました。

「面白そうだね、ぼくも仲間に入れてよ」

愛川さんと話すいい機会とばかりに私はまた売り込みました。

「私の競馬の予想は誰よりもよく当たります。ぜひ愛川さんの馬券は私に買わせてください」

「そう、君の予想はそんなによく当たるのかい。じゃあぼくの馬券代として1万円預けるから、きみの好きなように買っておいで。もし、今度のダービーまでにこのお金がなくなっても気にしなくていいからね。この1万円がなくなったら事務所に連絡して。そう言っておくからね」

もう夜中の12時を過ぎていました。早朝5時起きで、一日主役をつとめて、まだカラオケのマイクを離さない愛川さんの元気の源はどこにあるのだろうと、不思議に思うとともに本当に感心してしまいました。そして初めてお会いした愛川さんからいきなり競馬のお金を預かることになろうとは……。しかしこの1万円はその年の暮れには8万円に増えることになるのです。「どうせすぐにもうありませんと言ってくるだろうけど、あんなに一生懸命言ってたのだから、ひとりくらい信じてあげようと、朝ちゃんに乗っただけだよ」とはのちの愛川さんの言葉。これがやがて毎週日曜日朝10時から午後6時まで放送された超生ワイド番組『サンデー・スーパー・キンキン』の中の「朝ちゃんに乗りたい」のコーナーになったのです。

あのとき飲んだ勢いとはいえ、気の小さい私によくもあんなことが言えたものだとわれながら感心しています(どこが気が小さいんだって? いいから、いいから気にしない)

第7回 アルバイトでがんばる

5月 27, 17
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新宿コマ劇場では4年前まで、通算8年間八代亜紀公演に出演しました。役は毎年いろいろだったけれど、特に私が気に入っていたのは女郎の役。ある年、夜鷹の役をやったときも毎年見に来てくださっているお客さんからは「待ってました女郎……」と大向こう(客席から舞台に向かって掛け声をかけることです)がかかって、演じている私はおもわずずっこけそうになったりしました。もっとも女郎と夜鷹の違いが演じている私自身よくわからないのですから、お客さんにはもっとわからないのは当然のことでは……。でも旅役者や町娘を演じても、どうしても私には「待ってました女郎……」という大向こうがかかって、楽屋に戻ると、仲間たちにいつも笑われてしまいます。ある年の千秋楽にはプロデューサーから、「女郎役をやらせたら天下一品の森君、来年もし女郎役がなかったら主演依頼はしないよ」と冗談とも本気ともとれないことを言われたりしましたが、翌年にはまたちゃんと呼んでもらえました。そのときは大奥のお中老役でしかも悪役でした。これもとてもやり甲斐あったんですよね。

そんな私を脅かした新宿コマ劇場のプロデューサーもこれまた競馬大好き人間です。土曜、日曜はラジオ片手に苛々したり、ニヤニヤしたり。私が文化放送で競馬の予想をやっていると知ってからはかかさず聞いてくれました。ときどきお会いすると、「やあー森君、今度の日曜日のなになにという馬はこないよ。くるのはこれこれだよ。絶対にそう思うから、そういう予想をしてほしいね」なんて熱心に語ってくれたものです。私はそれ以来そのプロデューサーと競馬の話をするのが楽しみで、今でもよくコマ劇場を訪ねたりしています。

いわゆる商業演劇と呼ばれる舞台は1年に50日くらいで、あと舞台といえば銀座のみゆき館とか市民ホールとか。それでも稽古の日にちを入れても4、5カ月。残りはテレビのドラマやモデルの仕事をしたり。でもアルバイトにせいを出しているほうがこのころは多かったのです。女優、タレントも大変なんです。

アルバイトは新宿歌舞伎町のコマ劇場の近くの小料理屋「はな」、ここで約10年くらい働きました。ママは元松竹のSKDのタップダンサーで、新潟県出身の色白の浅香光代さんに似た世話好きな方でした。マスターはママより10歳年下の、歌手の上條恒彦さんによく似た酒好きのいい方ですが、たまにきずは12時近くになるともうベロンベロンになってしまって、ママと夫婦喧嘩をすること。お客さんは面白がって、これを肴に飲んでいるんです。ここのお客さんは多種多彩で、建築関係、保険屋さん、警察官、自営業、それからママの知り合いの芸能界の人たち。私はここでお料理を運びながら競馬の話をよくしていました。マスターは私のことを「女賭博師」と呼んでいました。皆さん、この可愛い朝ちゃんが女賭博師に見えますか。ここでアルバイトをしていたお陰で、テレビや映画関係者と知り合い、出演の機会も増えましたが、このままではいけない、もし女優としてやっていけないなら、なにか別なことを考えなければと、お料理の好きな私は遠い将来のことも考えて、調理師の免許も取ったのでした。けっこう堅実なところあるんですよ、私。

でも苦しいこともたくさんあったけれど、いろいろな人たちと出会えて、いろいろなことを教えてもらいました。それが今でも演技の役になっているんです。そして私を中山競馬場へ初めて連れて行ってくれたのも、ここのお店の常連さん。また別の常連さんは競馬場でたびたび会い、その人は私が文化放送の仕事で来ていることを知らず、「朝ちゃんはアルバイトしなくなったと思っていたら、毎週競馬場に通っている。女のくせにとんでもないやつだ」とマスターに言ったとか。でも文化放送の仕事とわかったときには、いつも同じ場所で私を待っていてくれて、「今日の朝ちゃんのメインレースの予想はなんだい?」とニコニコ聞くんです。私、競馬場でこの人に会うのを楽しみにしていました。予想料高いよ。取ったら奢ってよね、山田さん!

第6回 朝ちゃん、再び競馬に大接近

5月 27, 17
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新宿コマ劇場での最初のお仕事は、芸者役。初舞台でしかも芸者となると本当にたいへんなんです。お化粧やら所作ごとやらなにやらと。たとえちょっとの出番でもやはり大観衆を前に、初日はもう舞台の上で息が詰まりそうになったり、とちりそうになったりの緊張の連続です。でもみんな同じ板(舞台)の上の仲間という意識が強く、何日もたたないうちに俳優もスタッフも気心が知れうちとけてしまいます。舞台の世界独特の雰囲気なんです、これが。

緊張感と解放感の繰り返しの毎日、そして待ち時間が多いことなどから、舞台の仲間にはギャンブル好きな人が多く、私の住まいが場外馬券売場のすぐそばと知ると、1ヶ月間の舞台が終わったあとでも、みんなが私に馬券の購入を頼んでくるようになりました。その中に、馬券をとてもよく当てる人がいて、私はそれが不思議に思えたものです。

そのころ私はまだ競馬のことはよくわからず、ただ教わるままに馬券を買っていたのです。ある日、その人から電話がありました。

「今のレース当たったと思うんだけれど」

テレビはもちろんラジオの競馬中継も聞いていなかった私はさっぱりわからず、

「さあ!」

と答えると、その人から言われてしまいました。

「どうして馬券を買いに行った人が結果を知らないんだ。すぐにテレビをつけて結果を見て教えてくれ」

そう言われて私は初めて、毎週土曜日と日曜日はラジオやテレビの競馬中継を見たり、聞いたりするようになりました。そしてなぜその人がよく当たるのかをこっそり研究するようになったのです。そのお陰で私の競馬の知識は急激に増え、頼んできた競馬歴十数年の人より、私のほうが的中することもあったりして。

これは余談ですが、舞台の仲間とはよく平和島の競艇にも行きました。私が車の運転ができるので、運転手として連れて行かれたんです。みんなの熱中ぶりに私もやってみたくなって、そして7レースと最終の12レースを当てました。これが結構ついて嬉しくなり、配当金を換金していると、結局一番最後まで残ってしまいました。車を出すのが遅くなり、当たらない連中からぶうぶう言われました。

「運転手が最終レースを当ててどうするんだよ!」

この競艇で儲けたお金を少しずつ貯めていたら、いつの間にか40万円にもなり、その当時欲しかったエアコンやビデオや冷蔵庫が買えました。もう、かれこれ7、8年前のことですが、いまだにわが家では重宝しています。

こんな経験が後の朝ちゃんの『チリ山馬券必勝法』『銀行馬券の買い方』の基本になったのは言うまでもありませんが、これも平和島の競艇場のそばの墓地に眠っている父の血が私にそうさせているのでしょうか。

私がそんな毎日を楽しくおくっている時期、スポーツ新聞やテレビの女性の競馬キャスターが活躍し始めました。もっとも井口保子さん(現東京中日スポーツコラムニスと・女性競馬ジャーナリスト)は、ラジオ関東(今のラジオ日本)の競馬中継をこのころでもう何年も続けていましたから、古くからの競馬ファンならばその声を耳にしたことがあるでしょう。澄んだ落ち着いたその声の持ち主に私などは密かに憧れたものです。後に井口さんから直接、「女性競馬ジャーナリストクラブに入りませんか」とお声を掛けていただいたときの喜び、感激。その声の特徴からすぐに井口さんだとわかり、なんて輝いてきれいな方なんだろうと思ったのを昨日のことのように覚えています。

競馬の女性キャスターの活躍を目にするようになったころ、私もまた、場外馬券場ではなく、本馬場やパドックに立って、自分の肉眼でもって選んだ馬の予想やレポートをしたり、井口さんのように実況中継をできたらどんな素晴らしいだろうなと、考えるようになったのです。考えるとすぐ実行したくなる朝ちゃんなんです。

第5回 朝ちゃん、女優をめざして

5月 27, 17
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今だから言いますが、父に競馬場に連れて行かれた子ども時代の私の夢は女優さんになること。もちろんきれいな衣装を身に付けて、ファンに囲まれたいという望みもありました。けれど、生意気なようですが、私はいろんな場面で、いろんなキャラクターを表現できる俳優、アクトレスという職業に無性にひかれていたのです。

子ども時代の夢を再び思い起こした私は、すぐに、昔の知り合いのテレビ局のプロデューサーを訪ね、女優をめざすにあたっての心構えや勉強方法、俳優の養成所のことなどについて相談してみました。

「女優やタレントになるのはそんなに簡単なことではないよ。それより結婚して幸せな奥さんになるほうがいいんじゃないのかい」

その人の第一声でした。しかしそう簡単に引き下がる私ではありません。

「もう自分で決めてしまったんです。辛いことには慣れっこですから、がんばる覚悟はできています」

と食い下がる朝ちゃん。

その勢いにはさすがのプロデューサーもちょっとびっくりしたようです。しかしそれでタレントセンターと劇団の俳優養成所を紹介してもらうことができました。

こうして夢中で勉強して、タレントセンターと俳優養成所を無事卒業。それからはテレビやイベントの仕事も少しずつ入るようになり、川崎では遠くて不便なので、新宿に引っ越してきました。入居してからわかったことですが、そこは新宿の場外馬券売場(ウインズ新宿)に歩いて行けるすぐ近く。これも亡き父の導きか、としおらしく言いたいところなんですが、これが悪かったんですよ。

そんなとき、新宿コマ劇場のお仕事が決まりました。大舞台でのお仕事はこれが初めてで、新宿に移り住んだ早々に新宿でのお仕事がくるなんて、なんてラッキー! と嬉しく興奮してしまったのを昨日のことのように思い出します。

第4回 貧乏なんかに負けないぞ

5月 27, 17
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成人式以後は、ほとんど競馬とは縁のない生活が続きます。大黒柱だった父が借金を残して亡くなり、母も体調を崩して寝たり起きたりの暮らし。ふたりの弟もまだ独立できる歳ではなく、わが家で働き手は私しかいません。求人広告や知人を頼って、仕事の内容にかかわりなく、少しでも給料のよい仕事を探して、昼の勤務でも、夜勤でもできるものはなんでもさせてもらって、それこそわきめもふらず働きました。いま思っても本当によくやったなと自分で褒めてやりたくなります。

そのころ私はJR田町駅から歩いて15分程のところにある印刷会社に勤めていました。ここは私の母がお世話になった方のご主人が経営する会社で、私は営業一課に配属されていたのですが、営業二課の課長さんが無類の競馬好き。課長さんは金曜日の午後と土曜日の午前中はほとんど会社になくて、喫茶店で打合せと称し、熱心に競馬の研究をしていたのです。でもご本人の名誉のために申し添えておきますと、その他の日はもちろん夜遅くまで、人一倍働いていました。奥さんに作ってもらったという黒地に茶色とグレーの馬の親子の模様のクッションをいつも大事に抱えていたことや、ネクタイはいつも馬の模様だったことなどをよく覚えています。また月曜日の朝には部下たちが「課長、昨日は取れましたか?」なんてひやかして聞くと決まって渋い顔。でも時々、「君もお昼に何か好きなものをとって食べていいよ」と満面の笑顔で言ってくれます。毎週月曜日はこの笑顔が見たいと心密かに思ったのは私だけではないようでした。

そのK課長ももう定年近い歳になって、平成7年私がお世話になった印刷会社の社長さんの葬儀の席でお会いし、以前と変わらない笑顔で、「文化放送で競馬の予想をやっているのは、君だよね? よく当たるね。参考にさせてもらっているよ。持つべきものはよき部下だ……」。なんて話をしてくれました。「君はいつ競馬の勉強をしたんだい。だってぼくは、シンザンやタケシバオーやハイセイコーの時代から競馬をやっているんだよ。あのころはちっとも興味を示さなかったのに、嬉しいな……」って照れ笑いをしていたのが印象的でした。

そのシンザン、平成8年7月13日未明、35年と3カ月11日目にして死んでしまいましたね。戦後の競馬ブールの立役者で初の5冠馬。競馬を知らない人でもその名前だけは、知っている人も多いはず。テレビのニュースでも取り上げられた大きな出来事でした。Kさんをはじめ古くからの競馬ファンや、私のような競馬歴5、6年の若いファン層もこぞって涙した名馬シンザンの死。私も心に期するものがありました。

私はこの会社で一生懸命働きましたが、借金がようやくなくなったころ、よくしたもので母の健康もやや持ち直し、弟たちもそれぞれ就職してやっとわが家に安定した日々が戻ってきました。しかし、ホッとする一方で、私はなにか空虚な、心に隙間風が吹くような感覚に襲われるようになりました。家族のためにがんばって働くことで、自分に自信が持てるようになったけれど、このままでいいのだろうかという気持ちが頭から離れなくなったのです。仕事を通して知り合った先輩や友人たちともずいぶん話し合い、同じ働くとしても今度は本当に自分がしてみたいことにチャレンジすることが、この空虚さを埋める唯一の方法ではないかという結論に達しちゃったのです。

第3回 成人式で馬券初体験

5月 27, 17
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競馬との出合いの原点が父に連れて行かれた川崎競馬場とすれば、次の接点は成人の日の出来事にちがいありません。

当時私は同じ川崎市でも府中に近い登戸に住んでいて、高校生のころから府中の中河原、多摩川沿いにある今は「サクラサンリバー」というスーパーマーケットに買い物に行ったり、その店の二階にあるボーリング場へ遊びに行ったりしていました。そのころ知り合ったK君と成人式の会場でばったり再会しました。スポーツマンタイプの彼は、日焼けした顔に真っ白な葉が輝いて、爽やかなその笑顔が私とおない年なのに大人びていて、声をかけられたときは思わず胸がときめき、目が点になってしましました。そのK君がいきなり「式が終わったら一緒に遊びにいかない?」と声をかけてきたときは、考える間もなく「うん」とうなずいていました。もう胸が一杯で、式の最中もボーっとしていて、いったい誰がどんな話をしたのかなんてひとつも覚えていません。

そしていよいよ成人式の式典のあと、K君が連れて行ってくれたのは……、なんと府中競馬場だったのです。当時はまだ競馬場に来る女性というのはめったにいなくて、そこへ近所のお姉さんからの借り物とはいえ振り袖姿の正装した娘が登場したのだから、おじさんたちは一斉にピーピーと口笛をならし、「ネーチャン」と囃し立てます。私もK君も思わず真っ赤になって俯いてしまいました。でもそのお陰で、かえってさっきまでの気恥ずかしさはなくなり、K君と昔のように普通におしゃべりできるようになりました。K君に教えてもらって、生まれて初めて馬券も買いました。そしてレースを見ているうちに、フッと父と一緒に競馬場へ来ているような気がして、懐かしいようなやるせないような思いに駆られたものでした。

その日のレースもK君のことも、今では遠い記憶のかなたにおしやられてしまたけれど、成人式という人生の節目の日に初めて馬券を買うという偶然は、私がいつか競馬の仕事に進むことになるという伏線だったのでしょうか。

そして今、私がなぜか「サクラ」の名前のついた競走馬が理屈ぬきで好きになってしまうのも、後に知ったことですが、私が通っていた府中の「サクラサンリバー」のオーナーが「サクラバクシンオー」「サクラチトセオー」「サクラローレル」などの競走馬のオーナーだったという偶然も、なにか運命的なものに思えるのははたして考えすぎでしょうか。

第2回 父に連れられた川崎競馬場

5月 27, 17
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私が生まれ育ったのは神奈川県川崎市。今でこそ人口119万人、全国で第9番目の大都市だけれど、私が子どものころは一部の工場地帯をのぞいては、田んぼと畑の多いところでした。そのころ川崎市に住んでいた人たちの自慢は、全国でも最も市民税の安いこと。なぜならここは早くから競馬場と競輪場があって、その収益が市の財源に大きく貢献していたからだそうです。

そんな伝統のある街だから競輪・競馬の開催日ともなると、川崎駅周辺には申し合わせたように、新聞片手に赤鉛筆を耳にはさんだ、ちょっと怖そうなおじさんたちがぞろぞろと電車から降りてきて(おじさん、ごめんなさい)競馬場や競輪場行きのバスに吸い込まれていくのを見て育ちました。

父も競馬の大ファン。3人の子どもの中で長女だった私をよく競馬場に連れて行ってくれました。私も子どもごころになぜかその日が待ち遠しく思えました。しかし後年母から聞いたところによると、どうやら父は私を遊びに連れて行くという口実で、競馬場に行っていたようです。

初めて競馬場へ連れて行かれたときは、とにかく「怖かった」とい印象が強く残っています。周りにいる大勢のおじさんたちは大声でどなりあったり、ぴょんぴょん跳びはねたり、私の頭の上で紙切れ(外れ馬券)をふりまわしたり、まき散らしたり。背たけの小さな私にはレースはひとつも見えず、こんなところへは二度と来たくないと思ったものです。

しかしその後も父はいつも私を連れて競馬場に行きました。どうやら私を連れて行くと、ゲンがいいというのがその理由。そのころには私もすっかり競馬場の雰囲気に馴らされてしまいました。それがこんにち私が競馬の仕事をするようになった原点なのかもしれませんね。

競馬の帰りには父はきまってお酒を飲み、私にはお菓子と牛乳を買ってくれました。父はその日の馬の走りや勝ち馬、負け馬について私に楽しそうに話し、私も一生懸命走っているお馬さんの姿にはなんとも言えず感動を覚え、競馬場へ行った日はなかなか寝つかれなかったりしました。大当たりの日には、父は母や弟たちにも果物やケーキをたくさん買ってくれてみんなで大喜びしたものです。

その父も十数年前に亡くなり、いまは平和島のお墓に眠っています。その墓地からすぐ近くに競艇場があり、開催日にはエンジン音が響いてきて、お墓参りの帰りにはつい競艇場や大井競馬場に足を延ばしてしまうのですが、なぜかその日はよく当たるのですよね。もしかしてお墓の下で父が当たるようにと暗示をかけてくれているのかも……。

父との思い出の川崎競馬場も今ではすっかり整備され、立派になってしまい、平成7年からは夏になるとナイター競馬が行われ、スーパーキングナイターと名付けられたレースがあります。そうそう、平成7年の最初のレースは、地方と中央の交流レースのエンプレス杯が行われ、中央から出走したホクトベガがどしゃぶりの雨の中、他馬をよせつけず18馬身差で圧勝して場内を沸かせました。その記憶もまだ消えないうちに、またまた平成8年の7月15日に行われた同じレースでも、このホクトベガが逃げきって8馬身差で勝ち、これで賞金総額が、ナリタブライアン、メジロマックイーン、ビワハヤヒデ、オグリキャップに続いて5番目の8億2812万6千円となりました。今、父がこのレースを見たらどんな気がするでしょうか。